「誇りを持ち行動すること」が「世界を変えるアクションに繋がる」保津川遊船の豊田さんと考える川ごみのお話

更新日:11月23日





お話してくださったのは、「保津川下り」を運営する保津川遊船企業組合代表理事でありながら、環境問題に取り組む特定非営利活動法人プロジェクト保津川の活動も行う、豊田 知八(とよた ともや)さんと大阪商業大学公共学部公共学科の准教授として海洋プラスチック問題を研究されている減プラスティックのキーパーソンであり、ゴキゲンらぼのアドバイザーも務めてくださっている原田禎夫先生です。


とても素敵なお話でしたので、インタビュー内容ほぼ全文を掲載しています。インタビュー音声を聞き直し当日の様子を想い出しながら原稿を書いているのですが、とても胸が熱くなっていることは内緒です。


<はじまりは20年前のボランティア活動から>


今井みさこ(以下・み)今回は、ゴキゲンらぼアドバイザー原田さんの前回のインタビューにて、豊田さんがこの活動を20年近く続けられているということを聞き、実際に豊田さんにお話をお伺いしたいと思いお時間をいただきました。

豊田さん(以下・と)ありがとうございます。もう20年経つのですね。

原田先生(以下・は)プロジェクト保津川を創って10年強が経ちます。それよりも前から保津川の掃除を始められていたので20年ぐらいですね。

20年ぐらい前ですね、当時はまだ30代でした。「若手船頭さんが掃除なんかをして」と、周囲からは言われていましたね。

 保津川の掃除を始めたのは、私達若手船頭の中で気の合う一部メンバーからでした。もともと、掃除は毎年1回/年、保津川下りのシーズンが始まる春(2月の終わり頃から3月にかけて)、3日間ぐらい行っていました。しかし、シーズンが始まる前にちょっと川を綺麗にしておかないと恥ずかしいよねっていう程度。時間に追われ、目に見えるところを片付けておく程度の掃除でした。

 でも、そのやり方にいろいろと疑問がありました。これで一年中通して川が綺麗になるわけではなく掃除をし続けていく必要があり、ごみが流れてきた状態を放っておけないという想いからスタートしました。



同時に、プラスチックごみが増えてきたということを体感されたのですか?

そうですね。この活動を始める以前のごみ拾いは、空き缶・空き瓶拾いというイメージが結構強かったです。ですが、だんだん変化し、ペットボトル・トレイ・コンビニの弁当箱といったプラスチックがごみに増えてきました。ほんとうに景観は美しくありません。

 「清掃をやらないとダメだ」ということになったのですが、どこから手をつけてよいのか分からないというのが正直なところでした。数人のメンバーで出来ることは限られています。1日ごみを拾って歩いたとしても対岸両方は行けませんし、それだけで1日が終わってしまう状態。これを何日繰り返しても、ごみの回収に何か繋がっているという実感は全くない状態でした。それでも当時は『やらないよりやるしかない』という考え方でした。目の前にあるひとつのペットボトルを拾えば、確実にそれは減ります。具体的な効果というより、一つずつ拾って行こうという気持ちでした。

 当時、海外の方が来られたときに「川や景観が汚いですね」「掃除とかしないのですか」と言われたことがありました。こういうことは、多分海外の方はハッキリと言ってくださる。一方で、日本の方も実際は心に思っていても言わないだけ・こちらに伝わってないだけということに気付かされました。「これではダメだ、本格的にやろう」ということで、ボランティア活動がスタートしたのです。


:それは、原田さんに出会う何年ぐらい前の話ですか?

そうですね、出会う4年ぐらい前の話です。


:当時、行政側から活動に対して何か働きかけがあったのですか?


いいえ、行政側からの働きかけはなく完全にボランティアです。清掃活動は私が所属する会社の課題という位置づけでした。当時は、取り敢えずやらないとダメだと活動に燃えていたこともあり、その姿に若い船頭さんが影響をうけたのか、最初の半年は1~2名だったメンバーが少しずつ増え2年目で6~7名になりました。

<継続することが共感者を引き寄せる>


2年目で6~7名にも広がったのですね。

ちょっとずつ、活動の意味が伝わっていきました。職場の中で「署名を集めてごみの問題をなんとかしないとダメだよね」という声もあがり署名活動も行いました。また、この活動に共感してくれる人たちが増えていくことを期待していた為、当時の先輩方に対し、何とか組織をつくって欲しいとずっと訴え続けていました。しかし、職場内では「イタチごっこだ」、地域の人たちからは「掃除は船頭さん達の仕事場だからやるのは当たり前」という声も聞こえてきました。

原田さんも最初はそう思っていたと仰っていました。

:非協力的な意見がある中でモチベーションを保ちながらやり続けるというのは、なかなか大変なことでした。しかし、ここで諦めてしまってはこの活動が終わってしまう為、私達の活動について知ってもらう場も必要と考え行動し続けた結果、最初のきっかけを手に入れました。それが、保津川に船が流れるようになってちょうど400周年の2006年です。2005年に亀岡市役所の中・保津川遊船の中・亀岡市の中、それぞれで準備委員会などが出来、翌年の2006年に向けて共に何かしようという関係性になった時、伝統ある川下りの歴史的なことや文化的なことも大事だけれども、今の川の現状を知ること・川の環境を考えることも大事だという話をそこであげました。



初めて声をあげたということですか?

はい、そうです。ここであげたことによって、少しずつ私達の活動が理解され始めました。400周年で何をするかといった時、行政から「観光イベント・賑わいを作りたい」ということが最初の意見としてあがりました。しかし、「賑わいだけでは一過性のものでもあるから、その中に、歴史・文化の部会・環境部会と三つを作ってもらいたい」ということを提案し・三つの部会が出来ました。環境部会では、川ごみ問題に対して、「保津川の実態を見てもらおう。そしてみんなで何か大きなイベントとして、保津川の河川の環境を守ろう!市民100人の輪で保津川を囲もう!」などいろいろなイベントが行われました。

 コミュニケーションを繰り返すうちに川の環境の問題というのが段々と理解され、いろんなところで保津川の400周年に対して一緒にアプローチしてくださる団体の皆様が沢山でてきました。その中で、桂川全体の川の環境や川の取り組みを考えられている団体との縁ができ、保津川のごみの話をする機会がありました。その時の勉強会に、原田先生がいらっしゃったのです。


<転機>


そこで原田さんとお出会いになられたのですね。

そうです。原田先生と川ごみの話をしていく中で、何かひとつずつ形をつくっていく、例えばNPOであれば取組として出来るのではないかという考え方や話が出てきたのです。やはりここがまず一つの転機です。こういう流れで、実は今のこの活動が広がっていきました。

豊田さんの想いが繋いだのですね。

:ありがたいことです。そして、原田先生や、亀岡の桂川市長(当時は市長ではなかった)にも、その当時立ち上げメンバーとして入っていただき、約15人ぐらいが集まり、会が結成されました。行政の方が入っていただいた事、学識経験者が入っていただいた事はとても大きなことでした。大きく広がっていく実践的な活動が、更に効果があるところに広がっていくという形で進みました。

亀岡が日本で初めてレジ袋を禁止したというのは、豊田さんのその想いがあり、チームが出来、その伏線があってようやく今カタチになっているところもあるのかなと思いました。

結果的にはそうですね。当時はそうなるとは思っていなかったので、今考えるといろんな転機や人の出会いがあり非常に幸運だったと思います。

僕も当時は、今のこの海洋プラスチックごみの問題の事は知りませんでした。保津川一帯にごみがあるわけではく、ごみは谷間にあります。それは例えば、電車で一瞬トンネルとトンネルの間で目に入る風景の一部として見えるだけ。毎日川を見たり、川遊びや魚釣りをしに川にも行っていましたが、ごみを頻繁に目にするわけではない。だから知らなかったのです。

<事実を伝え知ってもらう>


川でこんなことが起こっています、ということを知ってもらうことが一番大事だったのです。その為、センセーショナルな風景を映した写真を持って行くこともありました。12〜16km区間の渓谷の中には、何十か所とごみが溜まっている場所があったのです。

 川の水が増水していくと、水面がだんだん上がっていきます。そうすると木の枝が出ていると、枝にレジ袋が絶対ひっかかる。枝も落葉樹だと尖がっていますから、葉っぱがなくなっていたらレジ袋が巻き付く。そして、水面が下がると七夕の短冊のように垂れ下がっている状態になってしまいます。